120年後、誰かが会いに来る生き方 ~お墓参りで考えた「人が遺すもの」~
チームSKM 中川です。
今日も、ゆるーくやってまいります。
どうぞよろしくお願いします。
皆さん、
最近、お墓参りに行かれましたか?
私は先日、
東京都府中市にある多磨霊園へ行ってきました。
目的は、
私が敬愛する児玉源太郎閣下のお墓参りです。
児玉源太郎閣下については、以下をご覧ください。
https://www.kodama-gentaro.
先月、山口県周南市を訪れ、
児玉源太郎の足跡を巡る旅をしました。
そのとき、顕彰会の事務局長さんに
「児玉さんのお墓は、多磨霊園にありますよ」
と教えていただきました。
それを聞いた瞬間、
「行ってみたい!」と思いました。
ということで、
前日は府中駅前に泊まりました。
翌朝5時。
昨晩から雨が降り続いていました。
さて、どうやって行こうかな…
「そうだ、自転車で行こう!」と思いつきました。
これが大正解!
出発する頃には、
雨もちょうど霧雨のような小雨になっていました。
早朝の多磨霊園。
とにかく広いんですよ。
事前に場所を調べていたとはいえ、
「ちゃんと見つけられるかなぁ…」
ところが、
こともなげに、
すぐに見つけることができました。
「あった……。」
もし、
「お導き」「呼んでもらえた」というものがあるとすれば、
こういうことなんだと感じました。
児玉源太郎が亡くなったのは、1906年。
今年で没後120年になります。
当然ながら、
私は児玉源太郎に会ったことがありません。
今では名前すら知らない人も多い…
それでも私は、
早朝から自転車に乗り、
霧雨の中、
120年前に亡くなった人のお墓の前に立っている。
お墓には、
お線香を焚いた跡。
供えられた花。
掃除道具。
今もここを訪れ、
児玉源太郎を想い、
手を合わせている人がいる。
120年ですよ。
これって、
一体どういうことなんだろうか…と考えながら
ちょうどいい具合に雨で濡れていたので、
道具を拝借して、お墓を掃除させていただきました。
そして、
手を合わせました。
すると、山口で感じた、
「よぅ来たのう」。
東京でもまた、
同じ言葉を感じました。
そして、
東郷平八郎元帥、
山本五十六元帥のお墓もお参りし、
お掃除をして、
帰ろうとしたところ…
なぜか、
「もう一度だけ見ておこう」と思い、
児玉源太郎閣下のお墓へ戻りました。
すると、
一匹のハチが、
児玉さんのお墓の周りを
飛び回っていました。
もちろん、ただの偶然です。
でも、
私にはまた、
「よぅ来たのう」
と言ってもらったような気がしました。
まあ、
そう思った、ということにしといてください(笑)
ところがですよ、
話はここで終わらないんです。
翌日、
新宿にいた私に、
山口の旅でご縁をいただいた友人からLINEが。
「松陰神社もあるし、
「おっ、そうだった!行ってみよう!」
実は、児玉源太郎閣下と乃木希典閣下は大変仲が良かったんです。
児玉閣下の雨の中の葬儀中、
「行ってみよう!」確定(笑)
せっかくなら、
その前に児玉坂通りにも行ってみよう!
現在の防衛省のそばにあります。
なんという巡りあわせなんでしょうか…
明治神宮外苑と赤坂御用地の間をすり抜け、
乃木神社へと到着。
宝物館で、映像資料で乃木閣下と児玉閣下が同時に映ったその時、
宮司さんから説明を受けている団体の皆さんが入ってきました。
なんでも、岡山からのご訪問とのこと。
興味あるお話に耳を傾けていると…
ご厚意で、なんと私もその中に混ぜていただくことに。
そして最後には、
考えてもいなかった
青山霊園にある乃木希典大将のお墓まで
お参りさせていただくことができました。
児玉源太郎のお墓に行き、
翌日には乃木神社へ行き、
気がつけば乃木大将のお墓の前にいる。
もう、
なんだかわけがわかりません(笑)
偶然と言えば、全部偶然です。
友人が乃木神社を勧めてくれたことも、
宮司さんのお話を聞けたことも、
その団体さんに混ぜていただけたことも、
乃木大将のお墓まで行けたことも。
一つひとつには、
何の因果関係もないのかもしれません。
でも、
こういうことが続くと、
最近私がよく考えている、
「応縁」という言葉を思い出します。
ご縁は、
自分でつくるものばかりではない。
向こうからやってくるご縁もある。
大切なのは、
そのとき、「はい」と応じられるかどうか。
「児玉さんのお墓へ行ってみたい」
「自転車で行ってみよう」
「もう一度、お墓を見ておこう」
「乃木神社へ行ってみたら?」
「行ってみよう!」
振り返れば、
全部、
小さな「行ってみよう!」の連続でした。
一つのご縁に応じると、
その先に、
また次のご縁が待っている。
人生って、
案外そんなものなのかもしれません。
そして今回、
もう一つ考えたことがあります。
私は以前から、
自分自身のお墓に、
こだわりはありません。
残された人たちの負担になるくらいなら、
どこかで永代供養してもらえばいい。
何かのついでに私を思い出したら、
ちょっと手を合わせてもらえれば、
それで十分。
今も、その考えは変わっていません。
でも、
120年前に亡くなった児玉源太郎や乃木希典のお墓の前に立って
一つ、考えが加わりました。
大切なのは、
お墓を遺すことではないし、
名前を遺すことでもない。
誰かが、会いに行きたいと思ってくれるような
生き方を遺すこと。
120年後、
私のお墓なんてなくてもいい。
私の名前なんて、誰も知らなくてもいい。
でも、
私が誰かに渡した言葉が、
その人から、
また誰かへと渡っていく。
一緒に考えた時間が、
その人の人生のどこかで生きている。
そうやって、
自分が生きた何かが、
名前のないまま未来へ続いていたら。
「それが一番ええなぁ…」って感じ。
お墓参りとは、
亡くなった人に会いに行くことだと思っていました。
それもそうですけど、
さらにこんな考えもあるんじゃないかなと。
これはこんなことです。
先人の生き方を通して、
自分自身に問いを投げかける場所なのかもしれません。
「お前は、どう生きとるんや。」
その問いに、
今日を生きることで答えていく。
そして、
いつか私も向こうへ行ったとき、
児玉さんに、
また言っていただけたらええなぁ…
「よぅ来たのう。」
そのときは、
胸を張って、
こう答えたいと思います。
「はい。
閣下のような生き方をしたいと毎日を生きてきました。」
皆さんは、
未来の誰かに、何を遺したいですか?
それではまた。
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